ハッピーテイナー

ゆきちゃん

面白いって何

小学生の時に中学受験をして全く知らない子供たちの通う中高一貫校へ進学した。

小学生の頃の友人が大好きだったので居住区が離れるのは嫌だったし、みんなとの共通認識が自分の中から途切れるのも嫌だったけど、「もっと面白い人間とたくさん出会いたい」と言ってその中学を受験して通い始めた。

その時は、「勉強ができる人の中にはもっと面白い人がいるのかもしれない」「あの近未来的なピンクの校舎の中には面白いものがたくさんあるのかもしれない」というイメージで「もっと面白い人間とたくさん出会いたい」という言葉を使っていたけど

 

実際に学校に行ってみたら朝は図書館で勉強、日中も同学年より2年くらい早い内容を取り入れた勉強を猛スピードでして部活もそこそこに高2あたりまでで高校生の勉強をすべて終わらすカリキュラムで頭に知識を叩き込む場所だった。

そこにいる人たちは、というかあたしの学年の人たちは、幸か不幸かわからんけどオタク気質の人が多くてそれぞれに突出したプロフェッショナルがあり、同じくオタクだったあたしは話すのが楽しかった。一番印象深いのは宇宙戦艦ヤマトシリーズのオタクだったノダクンという子で、文化祭で一緒に設計図を作ってダンボールで車のレプリカ(のようなもの)を作ったことが楽しかった。あれは今思うと「文化祭」の意義とはかけ離れていると思うけれど。(文化祭とは、クラスのみんなで力を合わせて1つのものを作り上げる場であるのに、芸術性の高い1強がすべてを支配して他の人間を作業に使う…という構図が文化祭に相応しくなかった。むしろ芸術活動のスタッフ化させてしまった)

 

そこであたしは気づいた。「ここは面白い人間に出会える場ではない」と。後から振り返るとこれも間違いなんだけど、それに気づいた瞬間に急激に学校に対して興味を失って家庭の事情も複雑化して高2あたりでほぼ学校へ行かなくなり、高3は校長先生の温情で在籍だけさせてもらい、みんなが卒業する日と同日に退学届を提出した。

 

そのうちに、「面白い人間」に出会いたいと思っている間の自分は「面白い人間たり得ない」ことに気づいたので、そもそも「面白い人間に出会いたい」と思うことをやめた。なんとなく、「面白い人間」同士は「自分は面白いから」と主張しない気がしたからだった。面白い人間同士は固まるが、主張はしないので、面白い人間に出会うためにはまずそのカタマリを見つけないといけない=自分も面白くあらないといけない、と感じた。

 

でも、面白いってなんだ?別にあたしは自分のことが好きなわけでもないしむしろ自分が人間然としている瞬間に吐き気がするくらい嫌悪感を抱く人間である。自分を愛せないので、自己愛が著しく低く、大切にできない。そんな人間が自分のことを、自己評価の最高である「面白い」とは言えない。

 

話は変わるけど、あたしはいつの頃か他人の笑顔を見ることが好きなことに気づいた。人が悲しんでる顔を見ると心がモヤモヤするので、きっとこれは不快な感情である。ならば、みんなが心から幸せそうな状態でいるならば自分のストレスは少なくなるはずだ、と。なので、人が喜ぶことや助かること、嬉しいであろうと思うことをだいたいなんでもやるようになった。それは相手のためではなく自分のためであるから、見返りはいらないし、完全に自己満足である。

そうしていくと、1つの気付きがあった。「自分のことを大切にできない人間には他人の大切に仕方がわからない」ということである。なので、それに気付いてから私は自分を大切にするようになった。自分が死んだらあたしのことを大切と言ってくれる周りの人が悲しむと感じたので、それはあたしの本意ではないので、自分を殺さないように・傷つけないように・体調を崩さないように・風邪をひかないように。

 

で、それをしたら周りがビックリするほど自分に優しいことに気づいた。

「ゆきちゃんはいい子だね」「善人すぎる」とかいう言葉を貰うことが増えた。

時々「ゆきちゃんのそういう狂ってるところが大好き」と言われることもあるけど。

 

言葉をもらう機会が増えるうちに、徐々に「面白い」と言われることが増えた。「興味がある」と言って近づいてくる人や、「今まで会った事ない種類の人だ」とか種別からレアだと言われたりする。

一方あたしの周りには、自己表現が上手な人が増えた。それはアーティストだったりカメラマンだったりミュージシャンだったり漫画を描くだったり趣味で音楽を作るだったり料理人だったり言葉巧みに討論する人だったり。あたしはその人たちを、自分にできるないことをできる人たちだから、最高に面白い人たちだと感じながら日々刺激をもらって生活している。

 

「もっと面白い人間を出会いたい」と言って中学受験をしたのは間違いではなかった。それは、自分の世界を広げることが「もっと面白い人間に出会う」ために不可欠なメソッドであるから。学生の時は世界の広げ方が容易ではないから、自分の所属する物理的なコミュニティを変えることが、一番の近道だったんだろう。

 

現時点で振り返った時の、自分の過去の行動に感謝することが多い。これが世界一幸せなことなのかもしれない。自分の歩んできた道に誇りを持てることが、今の自分を大切たらしめることであるから。

 


モーニング娘。'14 『What is LOVE?』 (MV)

「大丈夫?」「大丈夫(任意の文字を入れてね)」

あたしの記憶に鮮烈に焼き付いている女の子がいる。

小学校の同級生だった「楓」という子だ。

楓は、いつの間にかあたしの友達で、よく家に遊びに来たり向こうの家に遊びに行ったりしていた。子供ながらに、楓の家はなんとなく複雑で、楓は大人びている子だと感じていた。

周りの友達は「親が仲良くしちゃいけないって言ってたから、楓ちゃんとは遊んじゃダメなの」とか「ゆきちゃんもあまり近づかないほうがいいよ」とか言っていた気がする。あたしにとって楓と一緒にいる時間は楽しかったし、刺激的だったので、特に周りの言葉は真に受けず変わらずにあそんでいた。ただ、そのころの景色はボンヤリとしか見えていなかったので、当時の楓の気持ちをしっかりと理解したことは一度もなかったように思う。

 

印象的だったエピソードはいくつかある。

カラオケに言った時「ポルノグラフィティのアゲハ蝶」を歌った彼女がすごい綺麗で歌も上手くて、衝撃を受けて家に帰ってから親にその話をしたら「小学...年生でアゲハ蝶を歌うのは、やっぱり大人びすぎている子だわぁ」と言われて、何か彼女を非難しているように聞こえたけどそのままスルーしてしまったことだったり。

あたしは家で白文鳥を飼っていたのだけど、白文鳥があたしに懐いているものでずっとあたしの周りを離れなくて、家に遊びに来た楓が「ゆきちゃんばっかりズルい。楓も触りたいのに、」と不満をこぼしたり。

楓の家へ遊びに行った時に、初めて会った楓のお姉ちゃんがあたしに「もういらないから」と言ってポケットモンスター緑のカセットをくれたり。

車の中であたしの親を2人きりで待っている時に、「最近彼氏できたんだよねえ」と楓が話し始め、当時色ごとに疎かったあたしは彼氏をなんとなく"特別な男の子"と認識したまま「えー?だれ?」「ナイショ、でもね、高校生なの!」という会話をし、案の定小学6年生より上の男の子の現実味を帯びた想像ができなかったり。

詩を書く授業の時に「色々は いろいろあるのに なぜ色々?」という詩を作った楓があたしに一番に見せてくれて、あたしはその着眼点に目からウロコで「すごい!!たしかに!!!」と興奮していたのだけど、その様子を見て近づいてきた先生が楓の詩を見たら「どういうこと?」と理解を最後まで示さず、「ちゃんと意味のある詩を書きなさい」と叱り、あたしの詩を見て「ゆきさんの詩は素晴らしいですね!」と褒めていた。あたしはその時に書いていた自分の詩を、全く覚えていない。

 

その中でもいちばん未だにあたしに衝撃を与え続けでいるのは、休み時間にポスターだったかを書いていた時の話で。絵を描くのが得意だったあたしが中心となってアレコレしていたのだけど、周りの子とあたしだけでどんどん作品像が完成していき、(多分)その輪に入れていなかった楓が(あたしから見たら)急に怒りながら泣き出した。

あたしはなんで楓が泣いているのかわからず、「どうしたの?大丈夫?」と聞いたら「大丈夫なわけないじゃない!」と泣き崩れて、その直後に教室を走って飛び出していった。あたしはその言葉に頭をカナヅチで殴られたような気分になって、立ち尽くして、足音が聞こえなくなってから周りの子に「楓、心配だから、見てくる」と呟いたのを覚えている。そしたら周りの子は「いつものことだから気にしなくていいよ」と苦笑いをして、そのままポスター制作に戻った。

その場の違和感が強くて、あたしは気持ち悪くなったような気がするし、言われるがままにポスター制作を続けた気もする、先生が楓を追いかけていた気もするし、ただたしかなのは、そこから楓と学校外で遊んだ記憶が薄い。

 

後で親に聞いた話だけど、あたしが中学受験をすると決めた頃から親が意図的にあたしから楓を引き離していた、と言っていた。なんでそんなことをしたのか、なんであたしは全く気づかなかったのか、わからないけど、親が言うには「勉強に集中して欲しかったから遊びを控えて欲しかった。あと、あまり影響を受けてほしくなかった」らしい。楓はあたしの親に懐いていた記憶があったので、それを聞いた時はすごいショックを受けた。

 

楓の発した「大丈夫なわけないじゃない!」という言葉が、あたしの憧れであたしが一番怖いものかもしれない、と思ってこの覚書を書き始めた。

あたしは「かわいそう」という言葉が世界一嫌いで、「かわいそう」と言いたくないし「かわいそう」と言われたくない気持ちも世界一強いかもしれない。それはプライドや自尊心がそうしているのではなく、むしろプライドや自尊心はないに等しいのだけど、

「かわいそう」と言える人は心のどこかで無意識的に対象を自分より下位に感じているのでは?そうでない人には「大変だねえ」なりなんなり、同意の言葉をかけているのでは?「かわいそう」と言える自分に安心を感じているのでは、相手のことなんて考えず自分のために発している言葉なのでは...?

という気持ちがどうしても拭えないので、絶対に耳にしたくない。

 

「かわいそう」と思われる原因はたくさんあるかもだけど、大きく分類したら「自分の弱みを相手に知られた時」にかけられる言葉かと思っている。ので、あたしは自分の弱みをできる限り他人に見せたくなくてガチガチに守っていた。

ただ、自分の弱みをガチガチに守っていると急所として見つかりやすい事に気づいて、ある時期からノーガード戦法に最近切り替えた。様々なことを適当に流して適当に受け入れるスタイルだ。そしたら、みんなズケズケと急所と思わず入り込んでくるしそんなもんだからあたしも「まあ知らないから仕方ないよな」と思いスルーしていたら急所であることを忘れるし、で、無敵になったような気がしていた。

その戦法の弱点をあえていうなら、痛みに慣れているのでちょっと優しくされただけで痛いくらいヒリつくことだった。なので、弱点を克服しようと思って「優しさを真に受けない」を徹底したら、褒められても別に浮かれないし他人に対して過度な期待を持たなくなったのでだいぶ生きやすくなった。

それでもやっぱり不完全なもので、相手の"心から"出てくる優しさを何度も受け取った時は、正直不安になるし疑心暗鬼になる。一番困るのは、なぜか涙が出てくることだった。涙腺が弱くなったのかな、と感じた。

 

前に同棲していた人に「1人で抱え込んだまま勝手に自己解決しないで。ちゃんと話して。相談もして。」と言われたことがあった。その言葉を受けて、「あ〜あたしはSOSを言うのが苦手だったんだ、」と気付いた。で、反省してちょっと改善した。

でもいまだに苦手なので、「大丈夫?」と聞かれると反射的に「大丈夫だよ」と言ってしまうが、もしかしたら本当は大丈夫じゃないかもしれないし、自分の「大丈夫だよ」という言葉でさらに首を絞めているのかもしれない。

ガチガチに弱点を固めていた時よりもノーガードで急所を晒した方が生きやすいけど、いざという時に臆病になって急所をその場しのぎで隠すことばかり続けていたので、晒し続けた急所もそれを守る薄いフィルムもいつの間にかボロボロになっているのかもしれない。

 

「大丈夫なわけないじゃない!」と言った彼女に、あたしは、確かな強さと美しさを感じたし、「かわいそう」と言う感情も全く湧かなかった。

もしかしたら、そういうことなのかもしれない。

 

アゲハ蝶

アゲハ蝶

  • provided courtesy of iTunes

 

おぼえがきから見る現在

 

「なので、あたしの褒め言葉はちゃんと理由を述べられる裏付けのある褒めだよ!」という安心保証ツイートのつもりだったんだけど、色々と思い出して落ち込んだので書き出しておきます。

 

あたしは昔から学習能力が高めで、1つ気付いたら勝手に10個くらい関連しているものを思いついて全部覚える/考える子供だった。例えば算数であれば、解は1つだけどそこにたどり着く数式はたくさんあるのでその可能性を授業時間内はずっと練りくりまわしているような子だった。(数学になってからは数式の美しさに気付いたので、どれだけ綺麗に整頓された数式が作れるか、にシフトした)

 

その学習能力で、「褒めると褒め返してもらえる」とか「風邪を引くと周りが優しくなる」とかの法則に気付いて、上記ツイートのような方法で親から「褒め」てもらおうとしていた。

なんでそんなに「褒め」られたかったというと、100点をとったら褒めてくれたけど、毎回100点をとっていたらそれが当たり前になって「褒め」られなくなった。とか、難しい曲を弾けるようになったら褒めてくれたけど何回も弾いてたらBGMになって聴いてもらえなくなった。とかの経験からの行動です。多分頑張ったことを認めてもらいたかったんだと思う。

 

後々に親はあたしを「理想の自慢の娘」として他人に自慢をすることで自分のステータスをあげはじめるようになって、あたしは親が嘘をついてるとバレて恥をかかないように「理想の自慢の娘」を頑張っていた。

でも「理想の自慢の娘」でいても特に「褒め」られる(自分に還元がある)訳ではない事に気付いたので、その気付きをきっかけに他人のために頑張るのはやめようと思ったし自分本位の生き方をしちゃおう〜と思って行動している。実はこの前「ゆきがまとも(?)に生きてないせいで実家に行くたびにおじいちゃんから怒られて辛くて最近実家に行けなくて彼氏とずっと一緒にいる」という恨み電話を親からもらって、性格が悪いかもしれないけどちょっと満足した。

ちょっと話は逸れたけど、その結果、自分を褒めるのは自分しかいない状況がかなり長かったので、最近他人から当たり前だと思ってたことを「褒め」てもらえることが増えて正直困惑しているし、特に理由なく褒められてる感覚がするので全く実感がわかない。

ただ、つい最近の「褒め」で印象深いのが「ゆきちゃんは悪いと思ったことをちゃんと言葉にして正直に謝ってエラいね。なかなかできないことだよ」と言われたことで、理由を教えてもらって納得して「褒め」られることができて嬉しくてちょっと泣いた。別に頑張ってソレをしていた訳ではないけど、自分をパターンとかレッテルとかからではなくしっかり個として認識してもらえた上で唯一無二の言葉をもらえたことがすごい嬉しかった。

 

今年の目標の一つは、「褒め」てもらうことが上手になりたいです。

褒め言葉を純粋に「褒め」言葉として認識できるようになりたい。

  

億万笑者

億万笑者

  • provided courtesy of iTunes

 

最近タチの悪い学習の1つとして「この人になら甘えていいかもしれない」「この人にならワガママが言えるかもしれない」という希望的観測があるんだけど、自分に都合のいい期待の仕方をするといいことないのでやめたいです。

そもそも「他人に期待していい事って特にない」という学習はしてるのにちゃんと行動に移して自分の思考に反映できてない事実が凹むし、多分当たり前のソレができないくらい今自分が弱ってるんだと思う。弱みを全て潰してはやく最強になりたい

 

[余談]

ちなみに「風邪を引くと周りが優しくなる」というのも、風邪を引いた時だけ親が心配してすりりんごをすってくれて、それがすごく美味しくて幸せだった記憶からで。親に奴隷宣言された後も風邪を引いたらすりりんご食べさせてくれたのでその時だけ人間扱いされてる気がして嬉しくて何回も仮病したらバレてバチボコに殴られたので確か中3くらいで懲りた。懲りるのが遅い。

今はその経験を元に「嘘をつくと因果応報で怖いことがある」という法則にしたがって「嘘をつかずにできる限り素直に誠実に生きる」を実行しているけど、今のところは悪いことがないのでこれは正しい法則なのかもしれない。

 

ちなみに正しい法則(暫定)は

  • 人のことを褒めると世界にちょっと幸せな言葉が増える
  • 体調を崩した人は適切な栄養と水分を摂って布団で寝てると治る

です。

 

こんな記事を書いておいてなんだけど親の名誉のために言っておくと、別に悪い人じゃないしあたしはどちらかというと愛してもらいながら育った方だと思うんだけど、その「愛し方」があたしに合ってなかっただけの話です。今は行動原理が人間的ですごくかわいい人だと思ってます。現在の自分のことも結構好きなので、こういう風に育つ環境をくれた親にはわりと感謝してます。

おわり

グリンチ


『グリンチ』予告編 (2018年)

 

年の瀬、世も末、クリスマスが終わったけどクリスマスを題材にした映画を観てきた。

今回の鑑賞目的は「犬」です。鑑賞するに至った理由は好きなケモナーグリンチに出てくるらしい犬を絶賛してたからです。オタクの萌えに対する追求心をとことん信じて生きていきたいと決意を固められる映画でした。目的の欲求は満たされたのでよかった。

 

ザックリ評価

お話作りはチープでわかりやすい。むしろ長年こじらせたものをこんなにキレイに払拭できるわけないょ〜〜〜って気持ちになる現実感を削いだ映画だったけどそれが本題だとは思わなかったのでそこまで重要視してません。ストーリーは多分、個人的な主観としては、添え物だと思います。この映画の勝負どころは、画面芸術と視覚の満足度となんとなくそれっぽい多幸感を与えることとキャラクターの魅力が主。

特にキャラクターの魅力の伝達力がすごくて、近年よく存在している作品だと「ストーリー性の中で動いていくキャラクターたちに愛着を持ってもらえると相対的にそのキャラクターが生きてる世界のストーリーも愛してもらえる」構図が多いのですが、グリンチは「ストーリーの評価制を完全に捨て」て「キャラクターの独立した魅力」で勝負してた。それがすごかった〜

 

それができるのって並並ならぬ個への執着だと思うので、グリンチのキャラクターひとりひとりには度を越したフェチシズムを感じました。その最もたる例が犬 とにかく犬

 

あたしは犬が可愛すぎて涙がちょちょぎれた。犬の変態になっちゃう〜!って危機感も感じた。あとトナカイもわりと犬だった

 

 

音楽のアレンジが超イカしてて最高のヒップホップなので聴いて〜〜〜〜! 

You're a Mean One, Mr. Grinch

You're a Mean One, Mr. Grinch

  • タイラー・ザ・クリエイター
  • ヒップホップ/ラップ
  • ¥250
  • provided courtesy of iTunes

 

実に素晴らしいメリークリスマス

手作りリース

必要な材料は花屋さんと東急ハンズでだいたい揃います。

リース材料

[材料]

(花屋さん)

・モミの葉

・白い小花※ドライ

・赤いきのみ※ドライ

松ぼっくり

東急ハンズ

・リースの土台

・グリーンワイヤー

・ミニりんご

・お好みのリボン

・ホッチキス

・ハサミ

・木工用ボンド※余裕があればグルーガン

 

全部で3000円しないくらいでした。花屋さんで「これくらいの土台でリースを作りたいのですが…」って聞くと適量(がちょっと余るくらい)で売ってもらえます。困ったらプロに聞けば◎◎

 

作っていきます

基本的な動作は、リースの土台にすきなようにカットしたモミの葉等々をグリーンワイヤーでくくって後ろで捻って固定する〜を繰り返すだけです。コツはワイヤーを後ろで捻るときにひっくり返して土台の重さを利用してぎゅっと硬く締めることくらいです。最初難しいと思うので、土台の蔓の隙間とかにワイヤーをくぐらせて絡ませたりするとやりやすいです。

リース制作途中

モミの葉を土台に当てて、バランスを見ながらワイヤーで固定していきます。自分のすきなようにやるのが一番楽しいです。

 

キソ完成

キソ完成

一通りグルっと一周してバランスをみます。このときにどこを上にするかをバランスを見て決めちゃいます。

この後にポイントとなる飾り付けをしていきます。ミニりんごはワイヤーがついてるのでぐるっと回して、松ぼっくりは木工用ボンドでつけました。

 

f:id:HappyTainer:20181218154838j:plain

大きいアクセントをつけると急に見栄えがします。わたしはシンプルなリースを作りたかったので、そこまで主張しすぎないようにしました。色味のボリュームが足りない気がしたので、キラキラを付け足すために金色のリボンをつけます。最初大きめのアレンジリボンにしようと思ったのですが、コンセプトがぶれるので控えめにしました。

リボンは輪っかを1つ作って真ん中をホッチキスで留め、ホッチキス跡を隠すように普通にキュッと結びます。なんとなく片方を長くして垂らしました。後ろにワイヤーを通してモミの葉と同じ要領で巻きつけます。

クリスマスリース完成

できました

壁にかけたかったので土台にリボンを通して引っ掛けるところを作りました。

完成までだいたい1じかんです。グルーガンならもっと早くアクセサリをつけられると思うのですが、木工用ボンドなのでしばらく置いて固定しました。

 

部屋が一気にメリークリスマス!あと1週間ですが楽しんでいきましょう。