ハッピーテイナー

ゆきちゃん

田中らいらさんという存在

最近自分ってなんだろうとずっと考えてた。

 


らいらさんのライブに行きたいのに14時あたりから身体が動かなくて、最後なのに観にいけないのかな、なんでこんなときに倒れるんだろう〜って思いながら意識が消えて

でも何故かライブの2部が始まる19時ぴったりに目が覚めて行けそうな気がしてとりあえず服だけ着て外に出た、メイクもヘアセットもなんもしなかった。

 


着いたら入り口のスタッフさんが押してるみたいで〜って言ってて、したから登って来たお客さんに今ちょうどアンコールです。って言われて慌てて会場に入った。スタッフさんの持ってるリストにゆきちゃんって書いてあったのが嬉しかった。

 


入って一番最初に自分の参加させてもらったMVが流れた、異世界ヤンキ。を初めて聞いて絵を描いてほしいって話をもらった時はらいらさんが表舞台に立たなくなることを知らなかったから、最初聞いたときとは別の感情を受けて魅入った。自分が参加して、仮完成のものを見せてもらった時は正直完全に納得いくものと思えずこの絵がみんなに見られるの恥ずかしいな〜と思ったりした。

それなのに魅入ってしまった。

 


異世界ヤンキ。の生歌を初めて聴いて、改めてらいらさんの声にはパワーがあると思ったし、これがもう聴けないのかと思うとすごく喪失感で涙が出てきて、でもパワーがそれを埋めてくれてライブ中全然寂しくなかった。それがらいらさんのすごさなんだと思う、エンターテイナーだ。

 


ライブが終わった後に色んな人と話したし話しかけられた。らいらさんと知り合ったのは2019年の1月でついこの間なのにこんなにあたしのことを知ってる人が急に増えてらいら旋風を改めて感じて正直戸惑った。引きつった笑顔が出てたと思う。

 


当たり前のようにCDを買ってヒバリさんとチェキを撮って、らいらさんのチェキも買った。それをみてたmiuさんに「ちゃんとファンもしてるから偉いよなあ」って言われて嬉しかった。そうなんだよ、あたしらいらさんのファンなんだよ!

 


らいらさんのファンはこんな誇らしい気持ちになれるんだな〜って思った、ずっとらいらさんのファンでいたいな。勝手にずっとファンでいるけど。

 


物販でチェキを撮るときに、いつもは対面しててもLINEでも普通に話せるのに言いたいことが詰まって出てこなかった。これで最後なのかなって気持ちになった、「らいらさん、かっこよかった。好きです」って言葉だけが出て、鳩が豆鉄砲を喰らったような顔をした後にすぐ笑って「チェキのメッセージはゆきちゃんが書いて!」って言われた。ラブレターを認める気持ちで、感謝を綴った。

そのチェキは失敗しててぼんやりと暗かったけど、らいらさんは「これはあたしのだから!」ってもらってくれた。それで背中をドンッと叩いて「また会うでしょ!おつかれさまのマッサージしてくれるんでしょ?」って言ってあたしを励ますように笑っていた。そんなにあたし寂しそうな顔してたのかな、恥ずかしいな〜

 


るなてん!さんと「ここ、知ってる人いっぱいいるね。らいらさんの同窓会みたい」「そうですね、あったかいですね」って二言三言話した後にポロリと「でももうこれでライブはないから、この場もなくなるのかな、寂しいです」という言葉が出た、禁句だったかもしれない。

るなてん!さんはちょっとビックリしたような顔をしてから、これからるなてん!さんのやりたい事を話してくれた。話をきいてワクワクした。

 


ここはみんなの夢が詰まってるんだなあと思った。人間の人生って人間賛歌だ。

タロウのバカ、バカはどっちだ


『タロウのバカ』予告編

 

タロウのバカ、という映画のあたしの総評は「芸術作品だな」で、周りで観た人から聞いた評価は「映画として成り立っていない未熟作」や「意味がわからなかった」というものである。

 

偏見と知識は違う、知識(言葉)があるから感受性が生まれる。知識は経験から生まれる。

タロウは学校に通っていなかったので、知識がなかった。知識はなかったけれど、仲間を失うという経験をした。だから知識(言葉)を経由できなかったのでタロウに何が生まれたのか、という答えこそ出ないので映画としては答えを投げっぱなしにする状態になっている。でも視聴者は知識(言葉)を持っているので何かしら感受性を揺さぶられることもある。つまり、タロウの経験に知識(言葉)を当てはめられる人だけが感受性を揺さぶられて何かを得られる仕組みになっている映画なので、タロウのバカを観た人の感想として「映画として成り立っていない」とか「意味がわからなかった」という感想が出てくるのも納得である。作品として、映画の中で完結していないものだから。だからこそ、芸術作品だなあとあたしは評価したのである。完結した物語ではなく、世界の外側の人間を巻きこむことで物語の意味が生まれる作品であるから。これは極端に言い過ぎなのかもしれないけれど。

 

以上がタロウのバカ、という作品の楽しみ方なんだと思う。

 

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仕組みの図

 

 

楽しんだ先の話

あたしはそういう楽しみ方をして、自分の中に「生きるってなんだろう、死ぬってなんだろう、好きってなんだろな」という疑問を持って「純粋なところで生活する事なのかな」という仮説を持った。

 

 

じゃあ、純粋なところで生活するってなんだろう。あたし自身はかなり純粋なところで生活していると自負していて、そこから抜けた社会に触れるととても落ち込んでしまう。

例えば、大枠で言うと、人間の文明に触れると落ち込む。もっと絞ると、お金が絡んだ時の人間に触れると落ち込む。さらに絞ると、そういう人間が時にする濁った目を見ると落ち込む。

 

純粋なところで生活するってなんだろう、最近だと、寒い季節は空が透き通っていて高いな、とか、夜の街を歩いたらイルミネーションが始まっていて楽しいな、とか。

幼稚園の頃、外を見て「雪がちらちらしていてキレイだね」と先生に伝えたら、その感想に感銘を受けた先生が親に「どう育てたらこんな感受性をこの年齢で持てるんですか?」と聞いたらしい(ということを親から聞いた)。

 

あたしは周りに感受性を育ててくれる環境が揃っていた。小さい頃の周りの環境は、おばさんがお花屋さんをしていて、おじいちゃんが庭の剪定をしていて、おばあちゃんが切り花を床の間に作っていて、お母さんにピアノを習わせてもらって、キキという柴犬に面倒を見てもらって、近所のご夫婦に太極拳に連れてってもらって、登下校中にはコーヒーの焙煎の香りが立ち込める。そんな環境だった。人の純粋なところに触れながら育ったから、感受性が育ったんだと思う。

それと遺伝もとても感じる。18年ぶりに会った父親はザリガニ釣りをして寸胴鍋で煮て食べよう!という人だったし、おばあちゃんに電話をしたら「今日お歌に行った帰りに空を見たらお月様が大きくて、十五夜だ!って思い出したのよ〜」と話してくれたし、お母さんにその話をしたら「お父さんとの初デートは海まで散歩してテトラポットの上で夕日を見ながら寝ちゃったの、今思い出した」と教えてくれた。

 

そういう純粋なところの生活があたしにとっては心地が良くて、その部分が遠い実感が湧くと落ち込んでしまう。

 

世間は狭いなあ、とか、お金って人を変えちゃうんだなあ、とか、を感じてガッカリして日々へのワクワクが損なわれて、未来の展望にワクワクが感じられなくなって、落ち込む。

 

純粋なところで生活できる人って、何かを犠牲にはしているかもしれないけれど何か気持ちを豊かにできるものを得られる人なんだろうな。だから純粋ってキレイなものに感じるのかもしれない。

 

 

記憶の断片

 

 

 

余談の端書き(日記:11/10より抜粋)

 

ネットワークビジネスに誘われた。

その誘われた人は、音楽の話で盛り上がって、ポケモンの話で盛り上がって、芸術で世界を変えていきたい。と言っていた人だった。

その一つの資金源としてネットワークビジネスに誘われたのだけれど、あたし自体はネットワークビジネスをする人に偏見を持たないけれど、”悪い印象をもたれるビジネスに関与しているような人”という印象を持つ他者にそう思われる要因を排除したくて丁重にお断りした。そうしたらさっきまで楽しい話をするようにキラキラしていた瞳が、みるみる間に濁っていって、最終的に「君は世界を知らないだけだよ」とスマートフォンに目を向けながら言われた。

 

その出来事で感じたのは、その世界を知らないとお金って手に入らないのかな?という疑問で、その知るべき世界って”知識のない人からお金を搾取するビジネスの世界”なのかな、と思って。それとあたしは”そういう世界の知識がないからビジネスができるな”と判断されるような人間に見えたのかな、という悲しみがあった。

 

足りないものを補うことがビジネスになる事は知っている。でもあたしはそれをする事によって誰かに自分の感じたような悲しさを与えたくないな。多分、ネットワークビジネスってそういう悲しさを与えるから、不信感につながって、”悪い印象を与えるビジネス”になっているんだろうな。

 

そこの感情は置いておいて、その”知らないといけない世界”を通らないと金銭的に裕福になれないのかな、と感じた瞬間に「未来の展望にワクワクが感じられなくなって、落ち込んだ」自分を見て、純粋なところで生きていたいって社会性を身につけられない言い訳なのかな〜と思考がグルグルした。結局1日泣きながら寝て、起きて外に出たら商店街がイルミネーションされていて感動して、脳裏にこびりついた濁った瞳はちょっと薄くなったんだけど。単純だ。

 

でもそんなことを繰り返しているだけだと前には進めないし、そもそも前ってなんだろう。今のところはお金を稼いでやりたい事をできるスキルを身につけてやりたい事をやれるような自分になる。だけど、そんなキレイゴトだけじゃ生きてけないよ。と言われているような気もしていて、でもキレイゴトを言う側の自分を評価してくれる人もいて。

どっちを信用すればいいのかな、あたしは自分が心地いい環境にいたいな。それだけを望んで生きているのかもしれない。贅沢ものだな。

 

 

八月、某、月明かり

八月、某、月明かり

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考え方をロジック化しすぎた顛末(まだ末ってない)

なんで末ってないかというと人生が終わってないから思想の答えがまだ出ていないからなんですけど

 

スプラトゥーンで得たレート帯とルール別強さの違いについて

今日はこの話について話が今の所まとまったので書いていこうと思います。

スプラトゥーンという任天堂のゲームがあって、端的にいうとブキを使って相手を倒してルールに則った勝負に勝つ。というゲームで

そのルールは大きく分類して5つあって、それぞれのルールに対して勝つための方法が違う。その上どんなブキを持つのかによっても方法が変わって、そこからステージごとにも方法や最適解が違います。それを「ルール(条件)別の強さ」としてゲームから飛び出して実世界に置いてみましょう、という話が今回の主題です。

「ルール別の強さ」の指標にレートという概念があります。スプラトゥーンでは始めたてで右も左も分からない状態の一番下がC-として表されて、そこからC、C+、B-、B、B+、A-、A、A+、S、S+、Xという順序で上がっていきます。途方も無いですね。S+に至ってはS+0からS+9までありますから。

そのレートの概念を実世界に置き換えてみると、「やってることに対してのレベルの差」です。簡単な例えで言うと「何かの事象」に対して「趣味レベル」か「アマチュアレベル」か「プロレベル」か。と言うところでしょうか。

 

 

今回なんでこんな話をしているかと言うと、わかりやすくなるように一つ例え話を出しましょう。

私は浮気をされました。

浮気というのは、どこからが浮気という範囲かは明確では無いけど、今回は「自分とお付き合いしている状態」のときに「自分へのお付き合いに対する好意や熱意が相手になくなって」「他の異性と関係を持たれた」事についてお話しします。

 

その相手のお名前は〇〇××、在学中の大学は△◯大学で×留年中の何年産まれ今年で何歳、友人関係はこことここにあってツイッターアカウントは◯つ持っていて××で実家の住所は東京都〇〇…父親の実名は〇〇△三角です。出会った場所は〇〇という場所でそこでどのようなアプローチをされてどうであってどういう経緯で付き合う事になって浮気はなぜ自分にバレてどうやって自分と別れた後どうやってバッくれて今どんなせい活をしています。

 

という情報をあたしは持っているとしましょう。「浮気」というのは社会的に悪とされている(世間的に良い評価を受けない)という意味で「弱み」とします。例えば誠実な人間性を必要とされる会社に就職しようとする時に「自分は過去、浮気をしました!」とは言えませんよね。それはその会社に見せられない自分の一面、「隠していかないといけない事」であって「他者に勝手に漏らされたら困る情報」であって、それは「弱み」になります。

でも逆に狡猾に生きてきました、人を騙すことが得意です。という場では「自分は過去、浮気をしました!」というアプローチは合っているのかもしれません。なので一概に弱みとは言えなくて、自分の特徴、「アピールポイント」になるわけです。

その「アピールポイント(自分にしかないもの)」はそれにとって効果な場所や状態で使ってこそ「有効打」であったり「強み」になる。

 

しかし、ここでのルールは「社会性」とします。そうすれば「浮気を弱みを他人にバラされる状態」でその相手(他人)連絡を絶って野放しにしておくのはリスクマネジメントをする上でどうでしょう。ましてや自分の将来の就職先の会社は知らなくても「家族という社会」や「友人関係という社会」、「世間体という社会」、「インターネット社会」のどこかにばら撒かれる可能性があります。その情報を野放しにすることで何かが崩壊するとしたら、そのリスクを残しておくのは自分が特定の社会で生き続けて生きたいと思う上で立派な「弱み」になりますし、その場合、そのルールでのウデマエは「弱い」、つまり低レートという事になります。「社会性の低次元に生きざるを得ない人間」になります。

 

逆にルールを狡猾さを必要とする場、「女遊び」であればどうでしょう。浮気をできるということは自分がそのルールでの強みになります。ただ結局はバレているので「その程度のレート」であるわけですが。このルールでの一番の勝者は「関係が円滑に回るよう、誰にもバレずに狡猾にことを済ます」ことが得意な人になります。

 

ここまででこのルールで勝つために言いたいことは全部言い切りました。

要は情報をより多く持つ者がその情報を有効的な場所は時を決めて使える優位性ができさえすれば勝てるのです。

 

 

それではもう一つ例え話をします。

私は家に転がり込んできた人が「ちゃんと6万円返すから」と言って連絡を絶たれたけど別にその人を恨んでいません。

「それはむしろ良い経験だった」と言えたとします。

そう言う「私」を見た周りの人はどう思うでしょうか。「悪い男に都合よく使われた可哀想な女の子」なのか「都合よく使える頭の悪い女」なのか「悪いことを前向きに消化できるポジティブな人」なのか「そんなことをする人を恨まないお人好し」なのか分かれると思います。

 

ここでのルールを「人間性」としましょう。一般的に見ると「嘘をついた人間」は人間性が低く、「嘘を許せる人間」は人間性が高いです。

ではこのルールを「社会性」とすると、「嘘」はブキになります。「嘘をつける人間」は社会性がブキをうまく使えるなら強く、「嘘をつかれる側の人間」はブキを使われて社会的解決ができなかったので弱者となります。

 

この場合、「私」の持てるブキはなんでしょう。そのブキで勝てるルールはなんでしょう。そう逆算して、「持てるブキ」で「ルール」の勝者になれば、それは「持っている情報」を「場所や時」を決めて「施行する」事になります。一見「社会性」と言うルールで弱いような「私」についても、主導権を握れる「ブキ」と「判断力」があれば勝利ができる。と言う事になります。

 

ここで言いたかったことは自己理解(情報を持つ事)をして自分の魅力(ブキ)を有効活用できる判断力があれば不利なルールに対しても優位性が持てると言う事です。

 

「私」は今あえて自分がどんな「ブキ」を持っているのかを言っていません。なので人によってはこの「私」の頭が「良い」のか「悪い」のかはわかりません。ただ、「あえてどんなブキを持っているか言わない」ことで何が起きるでしょうか?

 

 

何が言いたいのかと言うと

どんなルールで戦うにしても 

「情報」を持って「有効活用」できる者が「優位性」を持って高いレベルに通用できる。

と言う事です。今回は「人間」についての例え話ばかりでしたが、「技術」についても同じことが言えます。むしろ「技術」があっても「人間」が上手くないと、良い発揮の場が持てずに「技術の手持ち無沙汰」になることがあります。なので、人間社会で生きていく上で一番の量を占めている「人間」についてお話ししました。

 

自分にどんなやりたい事があって、どういう人生を歩みたくて、そのためにはどう立ち回ると人生にとって有効的に動けて、どういう性質を伸ばして生きていくのがベストなのか。それが私の考え方をロジック化した顛末の今の人生論です。

こういう逆算はできるけど数字の逆算が苦手だから会計ミスとかしたりするんだけどね。そのミスをしないために他の人よりそこに意識を集中させる対策をとってるんだけどね。人それぞれ得意不得意ってあるよね。

終わります。

「ゆたか」であるってこと

自分が直近でよく使う言葉に「品」というものが増えた。

意味が近いものであれば「人生が推せる」とか「魂がある」とか「芯がキレイ」とかもよく好きな人を評価するときに使うようになった。

 

「好きこそ物の上手なれ」という言葉が大好きで、上達したものを絶やさないように「温故知新」して「文化継承」されていく事が私の人生においてとても価値優先度の高いものである。という話はこのブログ内でも時々話してたけど

 

クリエイターや表現者、面に立つ人、要は《自分の働いている姿(証)を魅せる事が価値になる職業》の人と関わり合いになる事が今年に入ってから特に多くて、そういう人たちは特定のものが好きであるからそれをより魅せる為に人生の貴重な時間を仕事という形で割けている人である事が多いので、「人生に一貫性」があるから「芯がキレイ」だと感じやすい。

まあ「金メダルなんてもらえない平凡な仕事でもどんな分野だっていいよ、一流を目指したい」人全員に当てはまる。これはこぶしファクトリーさんが言ってた言葉の引用なんですけど。 

 

最近ハマっている『オペラトルペ』さんというアイドルがいる。

ライブスタッフとして舞台を見たときに今の自分を飲み込まれるほど迫力のあるステージで圧巻された。他のスタッフにお願いして(それがたまたま通る日でよかったけど)業務中にも関わらず食い入るようにステージを見てしまった。

紹介として、彼女たちは《 "現代歌劇"をテーマに独特な世界観で物語を描く、5人組の個性派アイドルユニット「オペラトルペ」》(Twitterプロフィール)で、歌劇を魅せるための人形役に徹している5人のメンバーと、そのプロデュースをしている女性プロデューサーで基本成り立っている。"現代歌劇"はいわゆる現代病が主にテーマに取り上げられていて、「希死念慮」や「自己愛」、「自己承認欲求」などが1枚のCDごとに割り当てられている。

 

話の続きなのだけど、舞台が終わったあとに裏で仕事をしていたらたまたまプロデューサーさんとお話しする機会があり感動したことを直接伝えられた。スタッフの枠を越えないように気をつけながら丁寧に言葉を選んでいたので拙い言葉しか出てこなかったけれど、プロデューサーさんは「嬉しい!」と喜んでくれて、作詞をプロデューサーさんがしているという旨の話を受けた。

その瞬間に衝撃を受けたのが「ああ、彼女たちは歌劇(オペラ)に立つ役者でその脚本を書いているのがこのプロデューサーさんなのか」という事実で、プロデューサーさんを含めた彼女たちの「コンセプトの一貫性」を「推せる」と感じた。

これは余談なのだけど、メンバーで唯一ツイッターをしている矢吹ほのかちゃんが「殺人鬼発言集」というbotをフォローしていてもっと推せると思った。


オペラトルペ/EYES [MV - short ver.]

 

 

一面の条件で他人を判断する事

話は変わるけれども、いや続いているんだけど、私は「偏見」というものを自分の中に持つのを嫌っていて、「これはこうだからこう」という固定概念を」出来るだけ持ちたくない。もちろん理論だった「これはこうだからこう」という経験予測は必要だと感じている。

「偏見」を持っていると「認識の一過性」が強くなって物事を平等に立体として見れなくなる。

「偏見」と「(その人の)芯」は取り違えが起きやすい言葉なのだけど、そこの違いは「自分の承認外のものがあると把握しているか否か」ということに繋がっているんだと感じている。

 

「本筋を知っている人しか寄り道ができない」というのは常々感じていることである。

 

 

私は

「女性は幾つになっても女の子であり続けると感じるから、今を生きている視界に入る年配の女性全員を「年配の女性である」という事実だけから《ババア》って言えない」し

「自分に足りていないと感じるものを持ち得ている存在を自己卑下なしに純粋に尊敬できる生きている人を《美しい》と感じる」し

「どんなに過激なことを言っていてもそれを含めて自己責任で生きている人の《人生に口出しする権利》はないと思っている」し

「他者を最も醜悪に感じる瞬間は自己都合で《他者の人生や言葉を消費している》とき」だし

「自分がお金を払っている立場として、金銭を支払うに値しない事(求めているものと違う事)が起こると《その仕事の本質をわかっている人の価値》を改めて知る」し

ソクラテスの《無知の知》という言葉がずっと好き」だ。

 

これは偏見ではなくて私の思想からくる自分の「美意識の芯」で、自分が生きるときにおいて気をつけている事なのだと思う。

私は、「可哀想」という言葉が嫌いだし「短絡的な言葉は使いたくない」し「思考を特にせずに言動して他人を振り回す人が苦手」な人なので、そこに反する事は自分はしたくない。

 

あたしが芯を持てる物事に惹かれるのは、その物事の「芯」を感じて「美しい」と感じられたときなのだと思う。

 

 

「美しいという感情は畏れを含むものであるので、そこに自己を平等に置く事ができない状態が本当の「美」である」

「なので自己を平等において性を感じたら本当の意味で「美しい」とは感じないよ」

という言葉をみて(なるほど)と納得した事がある。

どんなに過激な表現の芸術を見ても「美術」と認識していると性消費する事はないし、尊敬(畏れ)を含んでいる存在に対して自分を反映することをしない。

 

あたしは、人間の人生に対して「美」を感じているので、基本他人にとやかく言いたくなくて、その反動で「他人標準で生きている人に対してそこまで「美」を感じな」かったりする。そういう人(自分にとってのアウトロー)がいることを把握しているからこそ自分の推し(本筋)を押せるので、アウトローの存在も絶対的に必要である。

 

 

基本物事は『必要因子論』で成り立っていると考えていて、

裏があるから面があるように

マジョリティーがいるからマイノリティーがあるように

こう感じる人がいるからこう感じない人がいるように

『この世に存在している限り、存在しい得るもの全ては何かに絶対に必要な存在である。』

という持論がある。18くらいのときに名付けたものをいまだに使っている。

 

だから、何事においても自己判断からくる批判は基本しないようにしていて、できない。それがあたしの人生を「ゆたか」にしてきた。

 

「ゆたか」であること、つまり余裕を持てること

お金があるから「ゆたか」とか

充実しているから「ゆたか」とか

何がその人にとって「余裕」に当てはまるのかはわからないけれど

 

あたしは「小さいことであっても自分の感受性を刺激される状態」が「ゆたか」だと感じるので、今お金が無いし時間に余裕がないしやることもいっぱいあるけれど

 

今はそんな自分の人生に品を感じながら生きてられているし、推せる。

 


道重さゆみ 『シャバダバ ドゥ~』(Sayumi Michishige[Shaba Daba Do]) (Promotion Ver.)

好きが溢れるクリエイターの近代世界

「名探偵ピカチュウ」をみてきた

ネタバレもクソもねーよ観た人間だけが読んでごめんなさい

 


【公式】映画「名探偵ピカチュウ」予告①

 

 最初情報を見たときはゲームもプレイしていたので、「名探偵ピカチュウでスピンオフ映画やるんだ〜」くらいで、

 ビジュアルが出たのと同時に情報として、趣味でもし現実にポケモンがいたらシリーズとしてリアルタッチなポケモンを描き続けていた海外ポケモンファンがキャラデザに携わったことを知って「最近ポケモンが外部アーティストやファンのアーティストを起用するケース多くなったな〜」と実感したっていう

 ポケモンのリアリティなキャラデザに対しての違和感を特に自分は強く感じなかったので、「探偵ピカチュウがモップみたいで可愛い〜」くらいの先入観で見に行きました。

 

 多分、キャラデザの大幅な変更に対しての違和感や嫌悪感がなかったのはアニメポケットモンスターのDP→BWやXY→SMの大幅なキャラデザ変更とか、劇場版ポケットモンスター みんなの物語で慣らされたのもあったり。そもそも私はキャラデザ変更に対しての嫌悪感は強くわかない方なので、あまり参考にならないかも。

 ちなみになぜ嫌悪感がわかないかと言うと、「ポケットモンスターと言うコンテンツの今後の展開にあたっての必要に応じた変更である」って納得があるのと。私がキャラデザよりもコンテンツ方針(コンセプト)の一貫性に重きを置いているからなのだと思います。

 

 ポケモン出戻りオタクの当初はキャラクター(主にサトシを中心とするアニポケ)の一貫性に重きを置いていたので、割とDP→BWが受け入れられなかったりXY内での脚本家によるキャラブレが許せなかったりあったんですけど、劇場版ポケットモンスター20周年作品 キミにきめた!で「アニメポケットモンスターにおけるサトシの役割が放映開始当初から年月を経て変わった」事を理解して、「きっと《ポケットモンスターのキャラクター》のブランドではなく、《ポケットモンスター》としての唯一無二の世界観を今後は売りにしていくんだな」と解釈してからは、かなり大幅な路線変更にも不満を抱かず納得しながら《ポケットモンスター》と言うコンテンツを楽しめました。

 

 で、前置きは長かったですが、そのコンテンツ方針の一貫性に重きを置いているあたしが映画「名探偵ピカチュウ」を観た感想を連ねていきます。細かい内容に触れたらキリがないので、重きを置いていた部分についてのみを抽出したものになります。

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