ハッピーテイナー

ゆきちゃん

「ゆたか」であるってこと

自分が直近でよく使う言葉に「品」というものが増えた。

意味が近いものであれば「人生が推せる」とか「魂がある」とか「芯がキレイ」とかもよく好きな人を評価するときに使うようになった。

 

「好きこそ物の上手なれ」という言葉が大好きで、上達したものを絶やさないように「温故知新」して「文化継承」されていく事が私の人生においてとても価値優先度の高いものである。という話はこのブログ内でも時々話してたけど

 

クリエイターや表現者、面に立つ人、要は《自分の働いている姿(証)を魅せる事が価値になる職業》の人と関わり合いになる事が今年に入ってから特に多くて、そういう人たちは特定のものが好きであるからそれをより魅せる為に人生の貴重な時間を仕事という形で割けている人である事が多いので、「人生に一貫性」があるから「芯がキレイ」だと感じやすい。

まあ「金メダルなんてもらえない平凡な仕事でもどんな分野だっていいよ、一流を目指したい」人全員に当てはまる。これはこぶしファクトリーさんが言ってた言葉の引用なんですけど。 

 

最近ハマっている『オペラトルペ』さんというアイドルがいる。

ライブスタッフとして舞台を見たときに今の自分を飲み込まれるほど迫力のあるステージで圧巻された。他のスタッフにお願いして(それがたまたま通る日でよかったけど)業務中にも関わらず食い入るようにステージを見てしまった。

紹介として、彼女たちは《 "現代歌劇"をテーマに独特な世界観で物語を描く、5人組の個性派アイドルユニット「オペラトルペ」》(Twitterプロフィール)で、歌劇を魅せるための人形役に徹している5人のメンバーと、そのプロデュースをしている女性プロデューサーで基本成り立っている。"現代歌劇"はいわゆる現代病が主にテーマに取り上げられていて、「希死念慮」や「自己愛」、「自己承認欲求」などが1枚のCDごとに割り当てられている。

 

話の続きなのだけど、舞台が終わったあとに裏で仕事をしていたらたまたまプロデューサーさんとお話しする機会があり感動したことを直接伝えられた。スタッフの枠を越えないように気をつけながら丁寧に言葉を選んでいたので拙い言葉しか出てこなかったけれど、プロデューサーさんは「嬉しい!」と喜んでくれて、作詞をプロデューサーさんがしているという旨の話を受けた。

その瞬間に衝撃を受けたのが「ああ、彼女たちは歌劇(オペラ)に立つ役者でその脚本を書いているのがこのプロデューサーさんなのか」という事実で、プロデューサーさんを含めた彼女たちの「コンセプトの一貫性」を「推せる」と感じた。

これは余談なのだけど、メンバーで唯一ツイッターをしている矢吹ほのかちゃんが「殺人鬼発言集」というbotをフォローしていてもっと推せると思った。


オペラトルペ/EYES [MV - short ver.]

 

 

一面の条件で他人を判断する事

話は変わるけれども、いや続いているんだけど、私は「偏見」というものを自分の中に持つのを嫌っていて、「これはこうだからこう」という固定概念を」出来るだけ持ちたくない。もちろん理論だった「これはこうだからこう」という経験予測は必要だと感じている。

「偏見」を持っていると「認識の一過性」が強くなって物事を平等に立体として見れなくなる。

「偏見」と「(その人の)芯」は取り違えが起きやすい言葉なのだけど、そこの違いは「自分の承認外のものがあると把握しているか否か」ということに繋がっているんだと感じている。

 

「本筋を知っている人しか寄り道ができない」というのは常々感じていることである。

 

 

私は

「女性は幾つになっても女の子であり続けると感じるから、今を生きている視界に入る年配の女性全員を「年配の女性である」という事実だけから《ババア》って言えない」し

「自分に足りていないと感じるものを持ち得ている存在を自己卑下なしに純粋に尊敬できる生きている人を《美しい》と感じる」し

「どんなに過激なことを言っていてもそれを含めて自己責任で生きている人の《人生に口出しする権利》はないと思っている」し

「他者を最も醜悪に感じる瞬間は自己都合で《他者の人生や言葉を消費している》とき」だし

「自分がお金を払っている立場として、金銭を支払うに値しない事(求めているものと違う事)が起こると《その仕事の本質をわかっている人の価値》を改めて知る」し

ソクラテスの《無知の知》という言葉がずっと好き」だ。

 

これは偏見ではなくて私の思想からくる自分の「美意識の芯」で、自分が生きるときにおいて気をつけている事なのだと思う。

私は、「可哀想」という言葉が嫌いだし「短絡的な言葉は使いたくない」し「思考を特にせずに言動して他人を振り回す人が苦手」な人なので、そこに反する事は自分はしたくない。

 

あたしが芯を持てる物事に惹かれるのは、その物事の「芯」を感じて「美しい」と感じられたときなのだと思う。

 

 

「美しいという感情は畏れを含むものであるので、そこに自己を平等に置く事ができない状態が本当の「美」である」

「なので自己を平等において性を感じたら本当の意味で「美しい」とは感じないよ」

という言葉をみて(なるほど)と納得した事がある。

どんなに過激な表現の芸術を見ても「美術」と認識していると性消費する事はないし、尊敬(畏れ)を含んでいる存在に対して自分を反映することをしない。

 

あたしは、人間の人生に対して「美」を感じているので、基本他人にとやかく言いたくなくて、その反動で「他人標準で生きている人に対してそこまで「美」を感じな」かったりする。そういう人(自分にとってのアウトロー)がいることを把握しているからこそ自分の推し(本筋)を押せるので、アウトローの存在も絶対的に必要である。

 

 

基本物事は『必要因子論』で成り立っていると考えていて、

裏があるから面があるように

マジョリティーがいるからマイノリティーがあるように

こう感じる人がいるからこう感じない人がいるように

『この世に存在している限り、存在しい得るもの全ては何かに絶対に必要な存在である。』

という持論がある。18くらいのときに名付けたものをいまだに使っている。

 

だから、何事においても自己判断からくる批判は基本しないようにしていて、できない。それがあたしの人生を「ゆたか」にしてきた。

 

「ゆたか」であること、つまり余裕を持てること

お金があるから「ゆたか」とか

充実しているから「ゆたか」とか

何がその人にとって「余裕」に当てはまるのかはわからないけれど

 

あたしは「小さいことであっても自分の感受性を刺激される状態」が「ゆたか」だと感じるので、今お金が無いし時間に余裕がないしやることもいっぱいあるけれど

 

今はそんな自分の人生に品を感じながら生きてられているし、推せる。

 


道重さゆみ 『シャバダバ ドゥ~』(Sayumi Michishige[Shaba Daba Do]) (Promotion Ver.)