ハッピーテイナー

ゆきちゃん

タロウのバカ、バカはどっちだ


『タロウのバカ』予告編

 

タロウのバカ、という映画のあたしの総評は「芸術作品だな」で、周りで観た人から聞いた評価は「映画として成り立っていない未熟作」や「意味がわからなかった」というものである。

 

偏見と知識は違う、知識(言葉)があるから感受性が生まれる。知識は経験から生まれる。

タロウは学校に通っていなかったので、知識がなかった。知識はなかったけれど、仲間を失うという経験をした。だから知識(言葉)を経由できなかったのでタロウに何が生まれたのか、という答えこそ出ないので映画としては答えを投げっぱなしにする状態になっている。でも視聴者は知識(言葉)を持っているので何かしら感受性を揺さぶられることもある。つまり、タロウの経験に知識(言葉)を当てはめられる人だけが感受性を揺さぶられて何かを得られる仕組みになっている映画なので、タロウのバカを観た人の感想として「映画として成り立っていない」とか「意味がわからなかった」という感想が出てくるのも納得である。作品として、映画の中で完結していないものだから。だからこそ、芸術作品だなあとあたしは評価したのである。完結した物語ではなく、世界の外側の人間を巻きこむことで物語の意味が生まれる作品であるから。これは極端に言い過ぎなのかもしれないけれど。

 

以上がタロウのバカ、という作品の楽しみ方なんだと思う。

 

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仕組みの図

 

 

楽しんだ先の話

あたしはそういう楽しみ方をして、自分の中に「生きるってなんだろう、死ぬってなんだろう、好きってなんだろな」という疑問を持って「純粋なところで生活する事なのかな」という仮説を持った。

 

 

じゃあ、純粋なところで生活するってなんだろう。あたし自身はかなり純粋なところで生活していると自負していて、そこから抜けた社会に触れるととても落ち込んでしまう。

例えば、大枠で言うと、人間の文明に触れると落ち込む。もっと絞ると、お金が絡んだ時の人間に触れると落ち込む。さらに絞ると、そういう人間が時にする濁った目を見ると落ち込む。

 

純粋なところで生活するってなんだろう、最近だと、寒い季節は空が透き通っていて高いな、とか、夜の街を歩いたらイルミネーションが始まっていて楽しいな、とか。

幼稚園の頃、外を見て「雪がちらちらしていてキレイだね」と先生に伝えたら、その感想に感銘を受けた先生が親に「どう育てたらこんな感受性をこの年齢で持てるんですか?」と聞いたらしい(ということを親から聞いた)。

 

あたしは周りに感受性を育ててくれる環境が揃っていた。小さい頃の周りの環境は、おばさんがお花屋さんをしていて、おじいちゃんが庭の剪定をしていて、おばあちゃんが切り花を床の間に作っていて、お母さんにピアノを習わせてもらって、キキという柴犬に面倒を見てもらって、近所のご夫婦に太極拳に連れてってもらって、登下校中にはコーヒーの焙煎の香りが立ち込める。そんな環境だった。人の純粋なところに触れながら育ったから、感受性が育ったんだと思う。

それと遺伝もとても感じる。18年ぶりに会った父親はザリガニ釣りをして寸胴鍋で煮て食べよう!という人だったし、おばあちゃんに電話をしたら「今日お歌に行った帰りに空を見たらお月様が大きくて、十五夜だ!って思い出したのよ〜」と話してくれたし、お母さんにその話をしたら「お父さんとの初デートは海まで散歩してテトラポットの上で夕日を見ながら寝ちゃったの、今思い出した」と教えてくれた。

 

そういう純粋なところの生活があたしにとっては心地が良くて、その部分が遠い実感が湧くと落ち込んでしまう。

 

世間は狭いなあ、とか、お金って人を変えちゃうんだなあ、とか、を感じてガッカリして日々へのワクワクが損なわれて、未来の展望にワクワクが感じられなくなって、落ち込む。

 

純粋なところで生活できる人って、何かを犠牲にはしているかもしれないけれど何か気持ちを豊かにできるものを得られる人なんだろうな。だから純粋ってキレイなものに感じるのかもしれない。

 

 

記憶の断片

 

 

 

余談の端書き(日記:11/10より抜粋)

 

ネットワークビジネスに誘われた。

その誘われた人は、音楽の話で盛り上がって、ポケモンの話で盛り上がって、芸術で世界を変えていきたい。と言っていた人だった。

その一つの資金源としてネットワークビジネスに誘われたのだけれど、あたし自体はネットワークビジネスをする人に偏見を持たないけれど、”悪い印象をもたれるビジネスに関与しているような人”という印象を持つ他者にそう思われる要因を排除したくて丁重にお断りした。そうしたらさっきまで楽しい話をするようにキラキラしていた瞳が、みるみる間に濁っていって、最終的に「君は世界を知らないだけだよ」とスマートフォンに目を向けながら言われた。

 

その出来事で感じたのは、その世界を知らないとお金って手に入らないのかな?という疑問で、その知るべき世界って”知識のない人からお金を搾取するビジネスの世界”なのかな、と思って。それとあたしは”そういう世界の知識がないからビジネスができるな”と判断されるような人間に見えたのかな、という悲しみがあった。

 

足りないものを補うことがビジネスになる事は知っている。でもあたしはそれをする事によって誰かに自分の感じたような悲しさを与えたくないな。多分、ネットワークビジネスってそういう悲しさを与えるから、不信感につながって、”悪い印象を与えるビジネス”になっているんだろうな。

 

そこの感情は置いておいて、その”知らないといけない世界”を通らないと金銭的に裕福になれないのかな、と感じた瞬間に「未来の展望にワクワクが感じられなくなって、落ち込んだ」自分を見て、純粋なところで生きていたいって社会性を身につけられない言い訳なのかな〜と思考がグルグルした。結局1日泣きながら寝て、起きて外に出たら商店街がイルミネーションされていて感動して、脳裏にこびりついた濁った瞳はちょっと薄くなったんだけど。単純だ。

 

でもそんなことを繰り返しているだけだと前には進めないし、そもそも前ってなんだろう。今のところはお金を稼いでやりたい事をできるスキルを身につけてやりたい事をやれるような自分になる。だけど、そんなキレイゴトだけじゃ生きてけないよ。と言われているような気もしていて、でもキレイゴトを言う側の自分を評価してくれる人もいて。

どっちを信用すればいいのかな、あたしは自分が心地いい環境にいたいな。それだけを望んで生きているのかもしれない。贅沢ものだな。

 

 

八月、某、月明かり

八月、某、月明かり

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